開業当初からのお金の流れ
綺麗事では済まされない
クリニックの経営
全く大学で聞いたことがない
お金と人の流れの関係
とりあえず自己流で何とかしようと
長男誕生という喜びと不安に背を押され
東京の下高井戸で業者情報を元に開業着手
銀行融資をフル活用し自己資金ほぼゼロで
7年ほど頑張った時のお金の流れが
開業当初はユニット2台から始まり
2年経過後くらいから衛生専用のユニット
1台増設して、我が子の入園を機に自宅を
借家から土地付き戸建て約30年中古住宅を
東京都三鷹市中原に追加融資で購入し
借金と子供の養育費の喫緊の課題について
迷う暇も無く、初心を顧みる余裕も欠き
がむしゃらに処置を繰り返していました。
開業してから暫くして多少の余裕ができ始め
た頃、開業前にプレ開業板橋診療所で出会った
ある患者さんへの対応方法を歯科大学病院で
歯科に関連する特殊領域の知識を独学で研究し
論文発表していた先生に教えを仰ぎながら対処
することになり、そのことを補助する内容の
高額セミナーの再受講が切っ掛けで診療体制が
開業前に目指していた形に変化していきました。
当初の経済重視から患者さんの病状重視に移行し
採算度外視の拘り診療にのめり込んだ結果として
銀行返済金額と収入バランスの乱れが生じ始め
診療より資金繰りに走るという悲しいかな経営者
には当たり前な情けない状態になっていきました。
そんな中、憧れとも言える外科医の兄との突然の
別れを経験し悲しみと共に思い起こされた生前の
兄が私に投げかけた「お前はこんな所で開業する
為に資格を取ったんじゃ無いだろ!」という
微かな記憶が日々増幅されていきました。
色々考え拠点をテナントから脱却する事を念頭に
静岡の実家に開業移転先を相談するも医科と歯科の
領域が違うということや兄の亡くなる前の金銭問題で
大学病院から実家に引きこもり再起の最中に起こった
交通事故によるものだったこともあってか、業者を
引き連れて説明をしても良い返事が貰えませんでした。
どうしたものかと悩んでいる所に孫のためならばと
妻の実家の埼玉県桶川市にクリニック移転を了承頂き
多大なるご配慮の元 色んな方に助けられ再開業へと
漕ぎ着けたのが平成12年!!
家族は、子供の学区の問題で東京にて生活し
私だけが桶川の診療所の二階で寝泊まりし
週末に東京へ父親業をしに帰るという二重生活
をしばらく続けていく中で、構想としてはユニット
2台での再出発計画でしたが開業資金を抑えるため
ユニット1台と電動マッサージチェア1台をユニット
代わりに使用しながら深夜営業をしていました。
開業準備金の用意がほぼゼロであったことも有り
回りの既存の診療所の方々に義理を欠きながら
収入の不足分を介護施設回りや近隣歯科医院への
バイトをしてなんとかやりくりして、孤立状態で
地域の医療体制の充実という使命には目を背け
自分の子供の生活と通院してくれる患者さんの歯を
守る事だけを考え二度と閉院だけは避けねばと言う
プレッシャーの中、兄が私に医師としての使命を
示してくれたことを思い起こし自問自答しながら
もがいている状況が続きました。
そんな中で私の静岡の実家での問題と父親の体調不慮
が発端で静岡に頻繁に帰郷するようになっていき
恐れていた父親の入院騒ぎを経て静岡の実家の整理で
ほぼ桶川で診療出来なくなり、経済的に廃業寸前にまで
なったときに回りの方々や家族に多大なる苦労と迷惑
を掛けているの事に全く気が回りませんでした。
静岡の問題解決がなんとかめどが立ち始め子供の
学区関係も遠距離通学を条件にクリアすることで
家族が一つにまとまり始め、父親の残してくれた
力を借りることでユニット1台と周辺機器を増設し
衛生士さん雇用を理想的な形で確立することができ
それを境にやっと前から構想を練っていた予防と
患者さん教育で処置は控えるという基本にシフトし
厳しい経営状況の中なんとか診療続行の儚い夢だけ
は持ち続けようと自分と周りに言い続けていました。
色々ありましたが10年ほど掛けてやっと落ち着いて
きたと思ったところにコロナ騒動と制度変更が重なり
自分の身体的衰え等を考えて保険診療を辞め自費診療
に特化して営業する決断をして2年が経ったところで
65歳を迎え、今までやってきたこととこれから出来る
事などをよく考える時期に来たのでは?ともとれる
会計士からの報告が手元に来て、今までの流れを
顧みる必要があるのでは無いのかと・・
小人閑居して不善を為す でしょうカァ~(^_^;)